新町公会堂の前、元は庚申堂があったところに地蔵堂があります。 そこには、石の立像としてはかなりの大きさの地蔵尊が立ち、立派な由緒書きも掲げられています。 江戸末期、安政の頃に大流行したコレラで亡くなった大勢の人々を供養するため、延命地蔵を建てたのが最初だといいます。 その後、明治の廃仏毀釈で打ち捨てられ、埋められたのですが、50年ほどたった大正8年、小柳丈之助という人物の夢枕にお地蔵さまが立ち、掘り起こしてくれと告げたそうです。 丈之助は町の人々に相談し、みなで探して地蔵尊を掘り起こしました。 夢告地蔵の話が伝わり、浜松中から参拝にくる人で賑わったといいます。 その後、戦争でお堂も御本尊も破壊され、現在のものは昭和26年に復元されたものです。
八幡町の万福寺の境内に、地蔵堂があります。周辺には黒衣地蔵尊の白いのぼりがひしめいており、信仰の厚さを感じます。 この黒衣地蔵は、別名身代わり地蔵とも呼ばれています。 その昔、勘右衛門という百姓の男が野口村を歩いていたときのこと、ふと道端から自分を呼ぶ声がしました。そこで場所を定めて掘り返してみると、一体の木彫りの地蔵尊が埋まっていたのです。 勘右衛門は信心深い男だったので、その地蔵尊を近くの万福寺に納め、日々参詣をかかしませんでした。 それから数年後、ある秋の夕暮れ時に、勘右衛門は村のはずれで侍に突然斬りつけられ、気を失ってしまいました。新刀のためし斬りにあったのです。 ところが、目を覚ました勘右衛門は、体のどこにも傷がないことに気づきました。これはお地蔵さまのご加護ではないかと思い至った勘右衛門は万福寺へ走り、いざ地蔵尊を見てみると、まさに肩先から胸の半ばまで、真新しい傷が残っていたのです。 この話とともに身代わり地蔵尊の評判は、浜松中に広まったといいます。
遠鉄助信駅から少し南の住宅地のなかに、ひっそりと地蔵堂が建っています。 表の脇の表示には、消えかかった文字で「兼吉地蔵」とあり、かろうじてここが地蔵堂であると分かります。 刀聖・正宗の高弟、志津三郎兼氏の子孫兼吉という刀工が、その名の由来です。 兼吉は旅の途中病にかかり、浜松のとある農家で療養をしていましたが、そのまま帰らぬ人となりました。 高名な刀工の死を悼んだ人々が、弔いのために祀ったのが兼吉地蔵です。 その後、新しく刃物を買うときには、ここのお地蔵さまにお参りする風習が起こりました。 名工のご利益で、刃物で受ける災厄をのがれることができると信じられたためです。 入口の戸は閉められ、ガラスもくもっているのですが、隙間から中に目を凝らすと、わずかにお姿が見られる気がします。
以前は浜松駅前、旭町にあった法雲寺ですが、いまは高町に移っています。 その門の脇に小さなお地蔵さまが祀られています。 帽子をかぶったような珍しい姿ですが、このお地蔵さまは、願う人が自分の患っている患部と同じところをタワシで洗うと、病がよくなると信じられているそうで、お堂の中にはタワシがたくさんありました。 日限地蔵とも呼ばれていたそうで、昔は信者も多かったようです。
浜松城公園の近く、東照宮から東に少し坂を下ったところに、居心地の良さそうな地蔵堂があります。 上がりこむとなかなか快適な内装で、地蔵堂というよりはちょっとした居間のようでもあり、そこにお地蔵さまが祀られています。 江戸後期の頃、田町で笠井屋という呉服商を営んでいた小野江さんが、家を建て替えるようとしたところ、土中から石の地蔵尊が出てきたそうです。 日限地蔵というのは、日を限ってお願いすればその日までに願いが叶うという、なんだかとても有難いお地蔵さまです。 戦争中も、周囲の惨状とはうらはらに、このお地蔵さまの境内地には爆弾が一発も落ちず、ここに避難した人々は全員助かったといいます。 そういったこともあり、いまでも厚い信心を集めるお地蔵さまです。
鴨江観音をお参りした方は、まず右手に大きなお地蔵さまを見るはずです。 青銅製の半跏像で、手前の石組みの井戸から長い柄杓で水をかけます。柄杓の取り扱いがもどかしくもあり、なかなか面白い体験です。 台座には寛延三年(1750年)建立と銘があります。 周囲には奉納されたたくさんの地蔵尊や様々な仏像が並び、仏像を見比べるにはいい場所かもしれません。